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説明過多

曲を作ったとき、リスナーがそれをどう受け取るのか。これは、作り手側の永遠の課題でしょう。

僕の場合でも、作品に対して最初の意図とは違った解釈をされることがあります。しかし、僕はそれを否定しません。なぜなら、一度作者の手を離れた作品は鑑賞者のものであり、それを鑑賞者がどのように解釈しようが自由であるべきだと思っているからです。僕がネットにアップしている曲にほとんど解説をつけないのは、そういう理由からです(その分、ブログでは思いっきりしゃべってるけどね(^^;))。

僕はいわゆる「コンセプチュアル・アート」というものがあまり好きではありません。「コンセプチュアル・アートのコンセプト」自体は面白いと思うのですが、これらの作品の多くにはやたらと長く難解な説明が付けられており、作られた作品をどう鑑賞するのかを指定してきます。こういうのを見るたびに、「伝えたいことが言葉で説明できるのなら、作品なんて作らずに本を書けばいい」と思ってしまうのです(実はそれこそが「コンセプチュアル・アートのコンセプト」なのですが・・・)。コンセプチュアル・アートの存在やその作家を全否定するものではありません。中には素晴らしい作品を創り上げる作家も大勢います。しかし、そこまで詳細にバックグラウンドを説明しなければ理解できない作品とは一体何なのか・・・?

それならむしろ、僕はポップ・アートを好みます。アンディ・ウォーホルの言葉を借りると「僕を知りたければ作品の表面を見ればいい。裏側には何もない」という姿勢の方がずっと好きです。

10年以上も前の話。当時参加していたバンドで、とあるオーディションに応募し、見事受賞したとき、その時の審査員長をやっていらしたカシオペアの向谷実氏に「君たちだけの話じゃないんだけど、曲に音が多すぎる」と言われたことがあります。その当時は「そうかなぁ・・・」と、なんとなく納得できずにいたのですが、今、その当時の曲を改めて聴きなおしてみると、確かに多すぎます(^^;)。余計な飾りが多すぎて、大切なメロディーやフレーズをかき消してしまっているのです。

この向谷氏の言葉は、以来ずっと僕の心に引っかかっています。そして、曲を作るとき「これは本当に必要な音なのか?」ということを意識するようになりました。

作家は作ったものがすべてであり、その中に表現したいことを詰め込んだら、後は鑑賞者がどう受け取るかに任せる以外にないのです。だからこそ、例えば音楽の場合、意味のない音を入れる余裕などありません。すべての音に意味がなければ、本当に伝えたいことは伝わりません。

実際、自分が表現したいことを正確に相手に伝えるのがどんなに難しいことか!100%伝わるなんてことは絶対にないと思った方がいいです。30%伝わればいいほう。60%伝われば最高レベルだと思います。だからこそ、一音一音に意味を込める必要があるのです。なぜここでストリングスが駆け上がるのか、なぜビートが一度も変化しないのか、なぜこのシーケンスフレーズだけが残るのか・・・。そこには必ず理由があるべきです。たとえ、その本当の意図が多くのリスナーにとっては聴き流されてしまうものだとしても、「きちんと受け取ってくれるリスナーは必ずいる」と信じて作り続けるべきです。そして、きちんと受け取ってくれるリスナーは必ずいるのです。

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